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 イタリアが好きだ。イタリアに行きたい。そんな想いがふくらんで、いつしかそこでの暮らしを夢みるようになっていった……。待っていたものはなんだったのか。当店スタッフ山崎基晋は、京都での生活をリセットして、憧れの国イタリアへ飛んだ……。

第10回 「エリーザとの出会い」



 恋人ができるかも

 伝えようとする言葉の使い方を間違っていないだろうか? 東京で仕事をしている今、イタリアの取引先に国際電話をする時、躊躇することがある。辞書や参考書を引っ張り出す、なんて時間もない。こんな時は会話の中でスラング(俗語)を頻繁に使う同年代のイタリア人、エリーザのことを思い出す。電話をかけてみようかと思うけれど、彼女とはもう2002年の1月から会っていないし、話してもいない。またあの時みたい「こう言うのよ」と教えてくれるだろうか。

  ミラノに暮らし、イタリア語学校に通い2ヶ月が過ぎた頃だった。イタリアにいるのに周りを見渡せば会話を交わすイタリア人は語学学校の教師だけ。そのほかに交流があるといえば、日本、韓国、そして近隣のヨーロッパ諸国からミラノに来た、語学学校の学生に限られていた。僕たちにとってイタリア語こそが共通の言語だったが、誰一人としてイタリア人ではない。これじゃ日本にいるのと変わらない。イタリアの流行語や生活習慣、遊び、学校では学べない何か、そういうものがきっとあるはずだった。もっとイタリアに、そしてイタリア人に近づきたい、そんな欲求が日に日に強くなっていった。

  留学生である自分に、ここイタリアでの友人作りにはどんな方法があるだろう、そんなことばかり考えるようになった。そんな頃、いつもと同じ文法レッスンの時間に、6人掛けテーブルの僕の向かいの席に、東洋人の女性が座った。細身の体つきに、高価そうな豹柄の毛皮コートを羽織った彼女。新入生なのだろうか。きょろきょろと目線が定まらない。緊張している気持はよく分かる。僕もそうだった。あとで留学の心得でも教えてあげよう。

  授業が始まり文法教師の質問に順番に答えるとき、彼女の番になった。「マキ」と呼ばれた彼女は日本人だった。このクラスのレベルは8レベルあるうちの、下からひとつ上のレベル2。まだまだ思うように質問に答えられない生徒が多い中、初めてこの教室の授業に参加した彼女は、なんとすらすらと質問に答えた。クラスの中にどよめきが起こり、彼女は皆の注目を浴びた。どうやらいろいろ教えてもらうのは僕の方になりそうだ。

  授業が終わり、早速バールに行こうと誘ってみた。学校前のブエノスアイレス大通りをはさんだ向かいのバールで、彼女は神戸からつい数日前にミラノに来たのだと、懐かしい関西弁で話してくれた。これまでにも、もうすでにボローニャで4ヶ月間も留学経験があると言った。今回はミラノに暮すイタリア人のボーイフレンドに会いに来たのだ。彼女がイタリア語を僕たちより上手く話すのは、イタリア人の恋人がいるからだったのだ。

  そしてジャパンマニアというイタリア人と日本人が交流するWebサイトで知り合った女友達もいるとのことだった。「エリーザという名で、少し変わった女の子だけど紹介するわよ」とマキは言った。イタリア人との交流を望んでいた僕にとっては彼女のその申し出がありがたく、もしかして僕にもイタリア人の恋人が、なんて妄想で早速頭の中がいっぱいになってしまった。



                    ピッツェリアのドラえもん

 僕とマキはブエノスアイレス大通りでエリーザを待っていた。少し時間に遅れたが、赤いダウンジャケットを着た女の子が駆け足で近づいてきた。長い手足、そして体全体を使って、遅れた理由を説明している。それがエリーザだった。イタリア人は体全体を使って言い訳をするのだな、などと観察しながら彼女に軽く会釈した。白い肌、目鼻立ちの整った彼女は一点をのぞいてはまずまずの美人だ。僕の勝手な好みの話だが、特別細身が好きというわけではない。だけど、それにしても……。エリーザは僕よりもぐっと迫力のある体つきだった。僕のほのかな期待は瞬時にしぼみ、どうやら友情を目指したほうが良さそうだった。はにかみながら挨拶をするエリーザの勧めで近くのピッツェリアに入った。

  ピザを食べ終わって雑談で盛り上がっていると、エリーザが突然歌いだした。日本人なら誰もが知っているはずのアニメの主題歌だった。懐かしいメロディにイタリア語の歌詞。まさかイタリアでこの歌を聴くとは夢にも思わなかった。初対面の僕が緊張しているのを察したのか、突然、ほんとに突然歌いだしたのだった。毎週夜7時、子供の頃テレビの前に釘付けになった未来猫型ロボット、ドラえもんが思い浮かんだ。

  ロックにパンクにテクノまで。音楽が大好きで、どんなアーティストの曲も聴いてみる、という彼女の部屋を、ピッツェリアでの初対面から1週間後、何人かの友人と一緒に訪ねてみた。夥しい数の音楽CDがスチール製のラックに整然と並んでいる。その隣には、やはり同じように映画のDVDが収まっている。ただ、よく目を凝らしてみるとタイトルこそアルファベットだけれど、DVDのフィルムのほとんどが日本の作品だった。さらにクローゼットの扉を開くと、そこにはマンガが壁面を埋め尽くすように並べられていた。そしてそれもまた日本のもので、全てイタリア語に翻訳されているものだった。

  エリーザは給料の大半をDVD、マンガ、キャラクターグッズの購入に費やすという。彼女はドイツ系電子部品製造メーカー『シーメンス』で、顧客センターのオペレーターをしていた。フランスとイタリアとの国境近くヴェンティミリアという町で育った彼女は、フランス語も英語も得意、仕事では彼女のその語学力が充分に活かされているようだった。月収は250万リラ(2001年当時、約15万円)。イタリア人の平均収入よりもほんの少し高い。彼女にとっては自慢の仕事だった。

  イタリアの映画館で見る外国映画は全てイタリア語に吹きかえられている(Doppiato)。字幕スーパー(Sotto Titolo)が付いた映画は一般的ではない。テレビで見る映画やアニメも同じ。演じる、というとことに天賦の才を発揮するイタリア人。声優の台詞だって、単なる吹き替えではなく、オリジナルの俳優やキャラクターの声や話し方をそっくりに再現している。オペラや演劇俳優の予備軍がまずこの世界で実力を試すらしい。

  テレビでは日本のアニメが特に大人気である。一日中テレビの前にいれば、どこかのチャンネルで必ず放映している。子供だけでなく大人も結構楽しんでいるようだ。僕と同世代のエリーザは、僕と同じアニメを同じ頃に見ていた。1万キロも離れたイタリアで、アニメを通して同じ子供時代を過ごしていたということが、僕にはちょっとした驚きだった。


                     「言葉」の後にやってくるもの

 語学学校のクラスメートからの、日本語の文をそのままローマ字で打ち込んだメールしか入らなかった僕の携帯電話。エリーザと知り合ってから、イタリア語の文章で、遊びの予定や待ち合わせ場所を伝えるメールが頻繁に入るようになった。待ち合わせの時間はいつも夜だ。お互い出費を抑えるために夕食を食べてから出かけることが多い。イタリアは食事の時間が遅いので、その後の待ち合わせというと、だいたい10時くらいになるのが普通だった。

  エリーザはいわゆる日本で言うところの家に引きこもるタイプのオタクではなく、とても活動的。ディスコ、バール、ピッツェリア、野外コンサート、見本市、仮装カーニバル、思いつくところ全てに誘ってくれた。とくに嬉しかったのは、どこに行くときも彼女は必ずといっていいほど、幼馴染や学生時代の友人など、僕にとって初対面のイタリア人を連れてきてくれることだった。イタリアにいながら、イタリア人と会話をすることのない生活から、一気に彼らと過ごす時間が増えた。「友人作り」の悩みはこれで解消された。

  日本人もしくは外国人との会話経験者の使うイタリア語は分かりやすいが、エリーザの仲間は日本人を見るのが初めてというミラネーゼ(ミラノに住むイタリア人)ばかり。エリーザが僕に話しかける時と、彼らと話をする時ではまるで別の言葉を使っているように感じる。語学学校の分かりやすく、選ばれた言葉で進められる授業がようやく理解できるようになってきた僕にとっては、ミラネーゼとの会話は難しく、緊張することだった。

  エリーザはいつも、僕がミラネーゼと交わす会話を聞いていた。上手くコミュニケ-ションが取れてないと、間に入って、僕が表現しようとしている事柄を相手に分かり易く伝えてくれたし、また逆に、彼らが話す内容を、選んだ言葉で通訳してくれたりした。まるで家庭教師のようだった。

  日に日に、彼らと過ごすことが多くなってくると、会話の際に躊躇する気持は徐々に薄れてきた。話題に困る時は、とにかくアニメの話をしてみた。子供の頃の記憶が蘇る気持は同じなのだろう、懐かしい思いを共有することができ、ミラネーゼたちとの距離は徐々になくなっていった。エリーザは、僕のミラノでの滞在期間、語学学校の教師よりも、もっともっと現実に近い言葉の教師だった。

  彼らと過ごすようになって数ヶ月が経過した頃、あれやこれやの言葉の言い回しは、イタリア人に直接、イタリア語で説明してもらう方法が自分にとっては最適になっていた。その時の話し方や情景で、その言葉をイキイキと記憶の片隅に残しておけるのだ。言葉を学ぶということは、きっとそういうことなのだ。辞書や参考書に向き合うだけでなく、同じ時を過ごすなかで、自分を伝え、そして彼らを知ろうとすること、それこそが「学校」だと、僕はだんだんそんなふうに感じるようになってきていた。

  自分の思い描いていた生活がだんだん形を整え始めているようだった。イタリアで生活しているんだ、という実感も少しずつ芽生えてきていた。と同時に、時にふといいようのない不安に駆られることもあった。この後どうするのか? このイタリアで、自分はこの後何をしていくのだろうか……。


(つづく)




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