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第20回 ヴィアレッジオで買ったCD



LUCCAの街路。インチキな部品市を除けばとても雰囲気のある街だ。
  今、鞄を買わなければ。そんな気持に急かされて、トリノ空港のDUTY FREEショップに駆け込んだ。搭乗まであと20分。でも、定刻どおりに飛んだためしなんてないから、時間的にはこれだけあれば充分だ。

トリノ空港のDUTY FREEはローカル空港のそれらしくこじんまりしている。ざっと見ていけば10分もあれば充分な広さだ。そこに定番のワインやタバコ、化粧品、そして申し訳程度にブランド品が少々並んでいる。

  僕はまっすぐに鞄の陳列台の前に行き、そしてそこにある決して豊富とはいえないヴァリエーションの中からひとつを選んだ。黒いナッパレザーの小ぶりのトラブルポーチ。ちょっと高価だけど、まあ、いいか、っていう感じで。

旅行用といっても、もちろんそれは日常生活の中で十分に用をなすもので、几帳面な(と自分では思っている)僕自身の好みどおり、内側にはカード入れ、ペンホルダー、そして独立したいくつかのポケットがあるものだ。柔らかな革の質感がとてもいい。

包装は必要ないです。タグも全部取ってください。レジの前の不機嫌そうな店員は、僕の言葉に大儀そうに反応して、3ヶ所のタグをハサミで切り、ほら、という感じで鞄を僕の前に置いた。やれやれの応対である。単一ブランドの専門店ではなく、ヴェラエティ・ショップのような免税店の店員は、おしなべて売れても売れなくても同じみたいな接客態度だ。僕はArrivederciも言わずにDUTY FREEを出た。

鞄を買わなければ、という焦りにも似た気持が生まれたのには理由がある。

ひとつには、袋物に目がない自分がここ最近新しいものを買っていなかったということ。そして、もうひとつは、この5月に約2週間ばかりを過ごしたイタリアで、うまくいかないことばかりが続いたことである。混沌とした状況を順序立てるには、まず自分の身の回りのものをきちんと整理する、というのが僕のいつものやりかただから、こまごまとしたものをきれいに収める鞄を、それも気分一新をはかって新しい鞄を、まず買わなければ、と思ったのだ。

パリ行きの4番ゲートの前の硬いプラスティック製の椅子に腰掛けて、今買ったばかりの鞄を仔細に眺めまわした。うん、慌てて買ったわりには結構いい。買い物の極意は、探して探してとか、あれこれ迷ってとかではなくて、出会い頭なんだなあ。人生の大部分なんてこうした無責任な偶然に満ち満ちている。

早速それまでのブリーフバッグのあちこちに点在するあれこれを、その小さな鞄の中に移してみる。手帳、ペン、そうそう、名刺もここに入れておいた方がいいか、デジカメはすぐ出せるように前のポケットに、予備のタバコはここで、なんてやっていると、じきに搭乗開始のアナウンスが流れた。

散らかり放題の部屋を整理したあとのように、なんだかすっきりした気分で立ち上がった。これからパリへ、そして乗り換えて日本へ。やったぜ、やっと帰れる。

☆☆

 ちょっとした行き違いで、あらかじめ頼んでおいた商品が手に入らなかったり、会うべき人間に会えなかったり、クリーニングに出したズボンのプレスラインが微妙に2本になっていたりで、5月のイタリア滞在中はずっとイライラしていた。

立派なチラシに誘われて出向いたルッカ(LUCCA/フィレンツェの近く)の部品市に至っては、仮設テントの会場に客が僕を入れてたったの3人。諦めきったようにポカンと口を開けた売り手が、まさしくガラクタのようなパーツ類を並べている。それも、タバコの吸殻まで一緒に。ああ、こんなところまでやって来たというのに……。

入場料の1万リラは捨てたものとして、早々に会場を引き上げた。収穫ゼロどころかマイナスである。もう、ここでは、やるべき仕事がない。その晩はここルッカの近くのヴィアレッジオ(VIAREGGIO)という地中海を臨むリゾートの街に泊まることにしてあったが、たいした仕事、いや、仕事なんて何もしていないのに、リゾートどころじゃない、っていう気分だ。

まだ、日も高かった。気を取り直して、ひとまずルッカの中心街に向かった。

城壁に囲まれた小さな街ルッカは教会の街である。つまりいたるところに教会がある。観光客のほとんどはフィレンツェを目指すので、長い間、この街は通り過ぎられてしまうだけの存在だったが、最近はちょっと事情が違うらしい。ローマ、ナポリ、フィレンツェ、ミラノ、ヴェネッツィアなど、名だたる観光都市に飽きた人たちが、イタリアのこういう小都市を好んで訪れるようになってきている。イタリアの等身大の姿を、ということなのだろう。

VIARREGIOのリストランテにて。胸いっぱいのピンバッジが重そう。
  長い午後を2回バールに入ったときを除いて、ずっと歩いていた。初めての街に来たら、まず歩く。歩いて、歩いて、その街の全体の姿をなんとなくイメージする、というのが僕のいつもの方法だ。そうやって歩いていて気づいたのだが、この街には運河こそないものの、なんとなく街全体に小さなヴェネッツィアという趣が漂っている。その薄暗い路地が交差して出来ているそれぞれのブロックのたたずまいが、ヴェネツィアのそれに似ている。

両腕を水平に伸ばすと両側の建物の壁に届いてしまうほどの狭い路地を折れる。するとすぐその先に小さな広場と教会。そしてまた次の路地の先に教会。ああ、そうか。これはきっとそれぞれのブロックに住む人々が通うんだ。その教会を中心にしていくつものコミューンが成立していて、そのコミューンの集まりがルッカというひとつの街に収斂されている。だから、街はずれがない。街全体に等しく生活のリズムが割り振られている。

そうやってルッカで午後を過ごし、ピサの斜塔に寄り道をして、それからホテルのあるヴィアレッジオに向かった。完全な観光客状態である。

予約してあったヴィアレッジオのホテルは、清潔で部屋は広く、バスルームも申し分なく、ロビーのソファーはまるでテレサ・テンに抱擁されているかのように柔らかく(何という比喩か)、ダイニングルームの窓の外にはキラキラと光る地中海が広がっていた。これで1泊19万リラ(約1万円)。あの部品市の19回分がこのホテルとは、つくづく世の中は不条理なものだ。

空振りだった仕事のことを考えると、大きなため息のひとつもつきたくなるような1日だったけど、新しい街をひとつ知ったこと、そして生まれて初めて地中海を見たことでよしとしよう。荷物を整理して、パソコンを机の上にセットして、それからホテルを出てぶらぶらと海岸の方に出かけた。

リゾート地らしく、明るい色調の街だった。スーツなんて着て歩いている自分が妙に間抜けである。広いメインストリートの両側にオープンカフェが並び、そのどれもが美しいテーブルクロスを競い合っている。翌日はイタリア全国で選挙の投票日。ここヴィアレッジオでも通りの一角に候補者が陣取り、身振り手振りを激しく交えて演説している。スーツ姿の自分と同じくらいこの土地に全然似つかわしくない。

さらに歩いていくと、きらびやかなネオンサインが見えた。『ディスク・ワールド』という名のレコード屋だった。ふらっと入って、そのときふと思いついた映画のタイトルを店員に告げ、そのサントラ盤はあるかと訊いてみた。

店員はうんと頷くと、奥の棚から1枚のCDケースを持って僕のところに戻ってきた。

☆☆☆

アンジェリカ。ちょっと暗い写りだけど、いつもとっても美しい。
 

上からアンジェリカの声が聞こえる。チョコラータ飲みますか? ロベルトさんの会社の地下の作業場は、アンジェラおばさんがデパートの実演販売みたいな調子で鍵のかけ方を何度も僕に説明して帰っていったあと、日本に送る荷物の準備をしている僕だけが残っていた。うん、ありがとう、僕が上に行くから。

上の事務所に行くと、そこに残っているのもアンジェリカひとりだった。トイレに続く薄暗い通路の隅にあるチョコラータのマシンの方に、彼女はサッ、サッと歩いていき、やがてふたつのチョコラータを持って戻ってきた。

事務所と応接室を繋ぐ廊下のところでカップを受け取り、僕は壁に寄りかかってチョコラータをひと口飲んだ。雨が地に沁み込むように、疲れた身体にその甘さがゆっくりと沈んでいった。

10月からね、とアンジェリカが言った。10月からまた大学にいけることになったの。彼女は僕のはす向かいの位置で壁に寄りかかって、使い捨てのチョコラータのカップを両手で包みこんでいた。

なんだかはっきりしない理由で彼女が大学に行くのをやめたのは、もう半年以上前のことだった。夜、開講される週2回の授業は、昼間働いている人のためのもので、彼女はそこで英語を学んでいた。それを、ここの仕事とは全然関係ないし……、なんていう口先でつくりだしたような理由を言って、彼女はコンセントからプラグを引き抜くような感じ(に僕には思えた)で、あっさりと大学との繋がりを断ってしまったのだった。

あの時、本当のことをどこか他の場所に置いてきたような彼女の言葉を聞きながら、本当のことって、お金の問題? それとも、どう頑張っても最後は同じということ? と口に出せなかった問いだけが、今この廊下から見える応接室の木製の椅子に、そこに座る僕の中にくすぶっていたのを覚えている。

ねえ、アンジェリカ、君は“ニュー・シネマ・パラダイス”を見たことがある? 唐突に僕は言った。
壁に寄りかかって口元のカップから目を上げて、アンジェリカはちょっと怪訝そうな表情を見せた。

いいえ、でも、その映画のことは知ってる。確か、今週、テレビでもやるはずだけど。

ふ〜ん、と言って、見るといいよ、と僕は付け加えた。老いた映写技師のアルフレードの言葉を思い出す。トト、シチリアを出て行け。そして二度と戻ってくるな。

それは生まれたようにしか生きられないイタリア社会の厳とした階級性と閉塞性の外に、君こそは勇気をもって踏み出してゆけ、という声に他ならなかった。アンジェリカ、君も踏み出せよ、君もそこから飛び出してゆけよ。

飲み終わったチョコラータのカップをアンジェリカに戻す時、金曜の夜『WASABI』という日本レストランに行こうと約束した。お祝いだから、と言うと、アンジェリカはニコっと笑って、オーケーと言った。
ロベルトさんの事務所を出て、イプシロンに乗ってホテルに向かった。ステアリングに手を置いたときに見つけた、ワイシャツの袖口の汚れをずっと気にかけながら、夕暮れのトリノを走る。あいかわらずの渋滞。2006年の冬季オリンピックを控えて、市内のあちこちが工事中なのだ。

あ〜あ、と大きなため息をついて、ヴィアレッジオで買ったモリコーネの“ニュー・シネマ・パラダイス”のサントラ盤をセットした。トリノで聴くモリコーネ。小学校の頃に毎日歩いた坂道が、あの大嫌いだった坂道が不意に浮かんでくる。いろんなことがあったよ。ただただそんなふうに、今は会うこともかなわなくなったあの頃の友達に、話してみたい。話してみたい、と思った。





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