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第23回 コルシア書店に誘われて



『コルシア書店の仲間たち』。冒頭でピレッリ社のすごさもわかる。
  鞄の中にいつも同じ1冊の文庫本を入れている。それは亡くなった須賀敦子さんの『コルシア書店の仲間たち』(文春文庫版)で、おそらく須賀さんという作家とその作品については、ご存知の方もたくさんいらっしゃると思う。イタリア車が好きで、その必然の結果としてイタリアという国そのものに興味を抱くようになったりすると、どこかで須賀さんの作品のひとつに行き当たる、なんていうこともあるかもしれない。

僕自身も、2,3年ほど前に、店からの帰り、遅くまでやっている書店でこの文庫本を見つけた。周期的に猛烈に活字に飢える。だから、なんか本を読みたい、という欲求を抱えて書店に入ってゆくときには、いつも胸が躍る。未知の物語やみずみずしい言葉がそこで息をひそめて待っているような気がして、それによって閉塞した日常に風穴があくかもしれないという期待もある。

『コルシア書店の仲間たち』はそんな僕の書店通いのなかで、なんとはなしに手に取った1冊だった。

イタリアの話だ。1950年代の半ばにイタリアに渡った須賀敦子さんが、71年に帰国するまでの大半を過ごしたミラノでの、そこでの生活の中核をなした『コルシア・デイ・セルヴィ書店』を巡って物語は進んでゆく。

乱暴に括ってしまえば、この作品は司祭で詩人のダヴィデ・トゥロルドという男を中心とした、理想の共同体の構築を目指すカトリック左派の運動という大きな流れを下敷きに、その活動の拠点となった『コルシア・デイ・セルヴィ書店』とそれに関わる人々の物語である。

12の断章を読み進んでいくと、『コルシア・デイ・セルヴィ書店』の栄光と衰退が心に沁み入るようにしてわかるけれど、しかしこの物語は書店の盛衰がメインテーマとなっているわけではない。そこで語られるのは、始まったものは終わる、という当たり前のテーゼを前にして、それでもそこにそれぞれの永遠を夢見て生きるひとりひとりの青春の道すじであり、書店に集った仲間たちの、そしてもちろん須賀さん自身の、精神と肉体の歩みの系譜である。

活字を辿ってゆくと、しっとりとした文章が静かな朗読のようにして耳もとを流れる。もう何度も読み返したけど、なんとなく本棚に戻すのが惜しくて、いつまでも鞄に入れて持ち歩いている。そしてふと思いつくと、遅く帰った夜のダイニングテーブルの灯りの下で、あるいは昼前のドトールコーヒーの落ち着かないストールの上で、適当に開いたページの何行かを目で追っている。

須賀さんは、自身の体験をこのように文章にするまでに、約30年の歳月を間に置いている。だからなのか、たとえば、叶わぬ恋の、その一途さを控えめにさえも表すことのないひとりの男を描いて、30年のフィルター越しの眼差しは、限りなく優しい。人生には、勝ちと負け、そしてそのどちらにも属さないまた別の河岸があることを、この本の中のいくつかのエピソードが物静かに語っている。

若い頃を振り返ることのできる地点にたどり着いたときに、それは誰もが顧みて心に抱くことかもしれないけど、でも、それを言葉にして表すことはとても難しい。勝ちでもない、負けでもない、胸の奥深くで言葉にされることを待っているそれは、一体なんだろうか。

『コルシア書店の仲間たち』に登場する何人かの若いイタリア人の姿に、僕はそんなことをあてもなく考えたりする。

☆☆

 須賀敦子さんが描くイタリア人と、僕が日常的に接しているイタリア人はちょっと乖離している。いや、僕にはシリアスなところなんて見せないようにしているのかもしれないけど、概して彼らは無邪気で愉快な人々である。そしてこれは僕らが類型的に捉えているイタリア人の姿に期待通りに近いものだ。

7月にイタリアに滞在していたとき、こんなことがあった。

トリノでいちばん古いといわれているバールに、知り合いのロベルトさんと行くと、席につくなり彼は僕に質問した。このテーブルがとてつもなく重いのには理由があるんだけど、それはなぜだと思う?確かにズシリと重い、大理石で出来たテーブルである。

これが件の大理石製のテーブル。これが残っているのはトリノでもここ1軒だけ。
  僕がその答えを考え始めるのとほとんど同時に、ロベルトさんは答えを言った。そんな、まだ2,3秒しか考えてないじゃない。最初から答えを言いたくてうずうずしてたんだ。なんかいつもこうだから……。なんて思っている僕を前に、ロベルトさんは得意げに言うのだった。

客がテーブルを投げるのを防ぐためさ。

つまり、こういうことだった。バールはイタリア人にとって日常的に不可欠のもので、そこで知り合いに会えば、挨拶はもちろん、自分や相手の近況に始まって、よもやま話に花が咲く。あたり障りのない話題ならば何の問題もないのだが、たとえばそれが政治談義などに発展すると、立場の相容れない者どうしでは、激しい議論になってしまい、最終的には興奮してテーブルを投げつけたりすることがあるのだという。

店もたまらないが、これで何度か死者が出るに至って、その昔(それがいつごろのことだったのかは、聞いたのに忘れてしまった)、投げることの出来ないテーブルを置くようにと法律で定められた。というのがロベルトさんが言いたくてうずうずしていた答えだった。

まったくもって、そんなことを法律できめるのか、という気がしないでもないし、じゃあ、椅子はどうなんだ、とも訊きたくなってくるけれど、生真面目で、しかもどこか間の抜けたようなこの感じは、イタリア人のDNAの要諦である。

シートベルトの着用が義務づけられたときに、ナポリの人間は警察の目を欺くために、いち早くベルトを肩から掛けた図柄のTシャツを作った、と言って北イタリアの人間は笑い話のひとつとしてこのトピックスをしばしば持ち出すけど、日本人の僕からみると、北イタリアの人であろうと同じ、五十歩百歩のオカシナ人々である。須賀さんの作品に出てくるような真摯でちょっと陰鬱なイタリア人に共感を覚える一方で、僕は一本外れたようなこんなイタリア人も、やっぱりとても好きなのだ。

シートベルトと言えば、ロベルトさん、ロベルトさんの友人のエンツォさん、そして僕の3人で、ロベルトさんのアウディA6アバントで夕食に出かけたとき、途中の待ち合わせ場所で不動産屋のフルバットさんが新たに乗り込んできた。彼は空いていた助手席に座るなりロベルトさんに言った。ロベルト、今日、シートベルトをしてなくて、7万リラ(約4千円)警察に取られたぞ。

本当か? ロベルトさんはそう言うと、やおら振り返り、シートベルトを締めてくれ、と厳かに後席の僕らに命ずるのだった。もちろん、助手席のフルバットさんにも。

そうやって、4人の男が生真面目にシートベルトを締めて、ほかのどのドライバーもシートベルトを締めていないトリノの大通りを、リストランテに向かっていった。車内ではフルバットさんを中心にしばらくの間シートベルト談義が続いた。アウトストラーダではいつも締める、いや、俺は締めたことがない。新車が届いた日に、試しに締めたことがあるぞ、等々。そして、やっぱりベルトはするにこしたことはない、というロベルトさんのまとめのひと言に、みんな深く頷くのだった。おさまるところにおさまるのが、大騒ぎをした果ての、イタリア人の議論の常でもある。

でも、その帰り、ワインを飲みながらの楽しい夕食が終わって家路に向かうとき、僕は来たときと同じリアシートに座り、そして目撃した。ユベントスのデル・ピエッロ選手の不調を論じて盛り上がる彼らイタリアの友人たちは、誰ひとりとしてシートベルトを締めていなかった。

☆☆☆

 僕がその文庫本を鞄に忍ばせて、かつてコルシア書店があった場所を訪ねたのは5月の1000 MIGLIAの季節だった。May Kiss(五月の風)とはよくいったもので、ミラノに吹く風はとても柔らかで、オープン・カフェの店先を撫でるように流れていた。

有名なミラノの大聖堂(ドゥオーモ)からヴィットリオ・エマヌエレ大通りを、ブランド・ショップ街として知られるモンテ・ナポレオーネの方向に歩いていくと、通りに沿って右側に『モンダドーリ』という大きな書店が見えてきた。最初、ここが元コルシア書店なのかと思って、近くにいた壁に寄りかかってボーッとしている老人に訊いたら、違う、という。それからその老人はやけにゆっくりとした動作で、そのモンダドーリ書店の脇の小道を入っていった裏手の方を指差した。

その方向に進むと、映画館があった。そしてその映画館の壁面に、“Largo Corsia dei Selvi”(コルシア・デイ・セルヴィ広場)のプレートが貼り付けられているのを見つけた。ああ、ここだったのか。と無意識にそんな言葉が口をついて出たように思う。あっけなく見つかった。ここにあの書店があったのか。

奇想天外なイタリア人。灰皿の下に滑り止めのグローブが見える。クルマはプント。
  陽の射さない薄暗いその一角はなんだか時間が止まっているかのように思えた。映画館の壁面を触ってみると、ひんやりとした感触が伝わってきた。そして、そのまま目を閉じると、新しい時代に踏み出そうとコルシア書店に集まった若い人々が、今もそこにいるような、壁面の向こうの幻の書店から歩き出してくるような、そんな錯覚に流されてしまいそうだった。

そのとき僕は、もうほとんどそらんじて言えることが出来るほどに読み込んだ、『コルシア書店の仲間たち』の最後の一節を反芻した。須賀さんは次のように最後を結んだのだ。

――コルシア・デイ・セルヴィ書店をめぐって、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた。そのことについては、書店をはじめたダヴィデも、彼をとりまいていた仲間たちも、ほぼ同じだったと思う。それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しようとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣りあわせで、ひとそれぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。
若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う。――

自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらない。賑わうヴィットリオ・エマヌエレ大通りの裏側、“Largo Corsia dei Selvi”で、僕は何度もその言葉を反芻した。




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