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第14回 L'addio a Edoardo Agnelli



 11月15日、フィアット創業者一族、Agnelli家のひとり息子、Edoardo Agnelliが46歳で自らの命を絶った。それが彼自身の愛車なのかどうか、その日乗っていたフィアット・クロマをアウトストラーダの路肩に停めて、TORINO―SABONA線の高架橋上から身を投げての死だった。

ちょうど昼食時のバールにいたとき、僕はそれを知った。誰かの携帯電話に飛び込んできたそのニュースは、瞬時に店内全体にドミノ倒しのように広がっていった。

「Agnelliが死んだよ」と教えてくれたのはそのとき一緒だったLorenzoさんで、最初その言葉を耳にしたときはフィアット会長,老齢のGiovanni Agnelliその人のことだと勘違いした。Agnelliが?と問い返すと、「息子のEdoardoのほうだよ」とLorenzoさんは言い、それから「自殺らしい」と付け加えた。

はっきりしない天気の日だった。その数日間ずっとそんな感じで雨が降ったり止んだり、なんとなく物事を否定的に考えてしまいたくなるような、低くどんよりとした空がトリノの街を薄暗く包んでいた。

陰鬱な日々、そしてそこにこのニュース。暗いドラマの舞台が完全に出来あがったようでいて、バールの中では彼の死を巡る賑やかな議論が笑い声さえまじえてそこかしこに湧き上っていた。

☆☆

  実を言うと今この一文を、パリにある星の数だけは立派な、それでいてチンケな、そんなホテルの一室で書いている。トリノの空港を午前10時30分に出て、エールフランスから与えられた“パリ2泊無料クーポン”とやらを使うべくのこのことやってきた次第である。

ひどいホテルだ。建物や設備がどんなに立派でも、そこに働く人間の想像力のレヴェルによっては、並みのB&B以下にも堕する見本、と言っても過言ではない。

  部屋の中に日本語の館内案内やパリ観光ガイドが何冊か置かれているのをみると、ここが名にし負う日本人ツアー観光客御用達のホテルであることも知れる。そういえば、1階のロビーでもちらほら見かけたっけ、ブランド・ショップの大きな手提げ袋を持った同胞の姿を。

セーヌ右岸にあるここから凱旋門を抜けてシャンゼリゼ大通りを歩いていけば、観光的にはパリのいちばん華やかな地区でもあるし、ルイ・ヴィトンを目当てにした行列だって見られるかもしれない。その壮観な光景は是非見てみたい。けれど、あいにくまたも雨。結局、部屋から一歩も出ずに、艶やかに濡れるパリの街並を7階の部屋から眺めていた。

結婚もしなかった、恋人も、ましてや友達と呼べる誰をも持たなかったといわれるEdoardoの、はたして彼の孤独とはどんなものだったのだろうか。同じ年代の人間の死というのは、それがどんな種類のものであろうと身につまされて、窓に広がるパリの景色に目をやりながら、しばらくぼんやりしてしまった。

☆☆☆

  Edoardo Agnelliは1954年6月9日、ニューヨークに生まれた。このことからして、Agnelli家がイタリア国内の戦後の混乱を避けて、戦勝国アメリカでの生活や教育を、やがてフィアットの総帥になるであろうこのEdoardoに与えようとしていたことは容易に察しがつく。

だがしかし、成長したEdoardoはフィアットを選ぶことはなかった。いや、事実は逆で、彼は選ばれなかったのである。

「放蕩の限りを尽くした」、「赤ん坊がそのまま大きくなった」と、彼の死を伝える新聞はおしなべて彼をそんなふうに評していたが、実際、Edoardoは切り捨てられた息子だった。どんなに親の温情を差し伸べようとしても、Agnelli率いるFIATは事業家として見込みのない人間を世襲でトップに立てようとするには大きすぎたのだ。

Agnelli家は彼を好きなようにさせた。自動車とは直接関係のないところでは、イタリア・サッカーリーグ、セリエA、ユヴェントスの名目的なオーナーの地位に就けてやったりもした。いずれにしても、それを可能にしたのは、もちろんAgnelli家の莫大な資産とその威光あってのものに他ならないのだけれど、そうやってEdoardoは、金や家柄でカタのつくことならすべて、まさしく何不自由のない人生を送ってきたのである。

ここ2、3年のEdoardoはインターネットに没入していたと言われる。ちょうど知り合いのLorenzoさんのところに出入りしているコンピュータの業者が、Edoardoご指名の業者でもあったので、僕はそのコンピュータ会社の若い男から晩年のEdoardoの様子を後日詳しく聞くことができた。

「狂ったようにチャット・ルームに入り浸りさ、1日中」とその男は言った

ドラッグに精神と肉体を蝕まれたEdoardoが、一心不乱にキーボードを叩く姿には結構鬼気迫るものがあっただろうが、そのキーボードのこちら側には何万の文字を打っても埋められない底なしの孤独が横たわっていたのかもしれない。

コンピュータ会社のその男は、それからさらにEdoardoの奇行のいくつかをあげつらったが、そんなことは金持ちの酔っ払いがするようなレヴェルの話で、なんら興味を覚えるようなものでもなかった。それよりも僕はそれを面白おかしく話す、いま目の前にいるこの長髪の男の表情の中に、先んじて向こう岸に渡ったことを誇るような小賢しさを感じて、それがたまらなく嫌だった。市井の常識的な人間の持つ、それはもっとも醜い一面に他ならない。

☆☆☆☆

  パリの2日目、タクシーに乗って、左岸のカルチェ・ラタンに行った。毎年2月には、この地区にある安宿『ホテル・パンテオン』に泊まり、そこから地下鉄で“RETROMOBILE”の会場に通っている。

その日、カルチェ・ラタンに特に行かなければならない理由もなかったのだけれど、なんとなく見知った地区の安心感に浸りたくて、「ソルボンヌ大学の辺りへ」とタクシーの運転手に告げた。

タクシーを降りてから、ソルボンヌの周囲の坂道をぶらぶら歩いた。小さなカフェに入って、表通 りに向かって並べられたテーブルのひとつに席をとり、大好物のハムをはさんだ美味しいバゲットを食べ、イタリアに比べると絶望的に不味いエスプレッソを飲んだ。ただそれだけのことをするためにだけ、そこに行ったようなものだったけど、僕はそれで十分満ち足りた。

1968年パリ五月革命の炎が燃えさかったここカルチェ・ラタンで、今、その残り香を探すことなんてとてもできないけれど、ここにいて目を閉じればあの高揚の時代に自分の想像力でもって飛んでいくことはできる。そしてそれと同時に、その昂ぶりに満ちた時代の背後で、いつもと変わらず繰り返されていた人々の日常的な営みまでもが、フラッシュバックされて甦ってくるのだ。

亡くなったEdoardoはその頃ボブ・ディランが好きな14歳の少年に過ぎなかった。そして、少なくともあの時代の少年がそうだったように、彼もまた、まだ「未来」というものの存在を、たとえば彼の好きな歌の一節の中にさえも見つけることができていたはずなのだ。そんなふうに考えていると彼の死は、同世代の僕にとって、やはり少なからず胸に迫ってくるものだった。

Edoardoの死の翌日、それを報じる『LA STAMPA』紙の見出しが秀逸だった。

L'addio a Edoardo Agnelli (さよなら、エドアルド・アニエッリ)

再会を期するArrivederciではもちろんなかった。ぐうたらなEdoardoヘ向けたL'addioには、そうやって生きるしか道がなかったEdoardoへの、ほのかな寄り添いと惜別 の情がこぼれていた。




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