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第37回  スカリエッティ・モデナ



5月22日1000 MIGLIA。147がとてつもなく大きく見える。ブレシアの街はこの日、1日中お祭りのように賑やかだ。

世界――。1000 MIGLIAの街角で。
 アウトストラーダのモデナ・スッドから、約5キロ。途中、左に曲がるとマラネッロに向う交差点を直進してすぐ左手に、彼のアバートはあった。ホールへのエントランスのドアがミラー仕上げになっていたりして、イタリアのアパートの平均からするとすこぶるモダンな外観だ。子供は独立したので、今は奥さんとふたり暮らし。地下の部屋と1階の部屋を別々に借りていて、貧しくもないけど、金持ちもでない、いわば平均的なイタリア人の暮らしぶりである。

 彼の名はペッローニという。初めて会ったのは2002年のどこかの自動車部品の蚤の市のようなところだったと思う。彼はそこに小さなスタンドをひろげて、ふとり気味の身体を窮屈そうにして座っていた、テンガロンハットなんかかぶって。

  ふつう、自動車の部品の蚤の市に出品してくるのは、その種の仕事を専門にした業者がほとんどで、そんな彼らには一種独特の「匂い」がある。いかにも「怪しい」という感じ。なんだか適当なメーターに、アバルトのちっちゃなステッカーかなんか貼って、悪びれず平然と売ってたりする。値段だって、あきらかに客を見てその場で決めている。まあ、全部が全部そうだというわけではないけど、ほとんどはそんなふうに生活力のたくましい、でも隙だらけの、それでいて手強い、一筋縄ではいかない相手なのだ。

 そんな中でペッローニさんは異色といえば異色だった。風呂上りのようなサッパリとした顔をして、テンガロンハットなんかかぶってるんだから、お人好しのオジサンってな感じだったし、並べてる品物もいつかどこかで見たことのあるような、フェラーリのおざなりのガジェット程度のものだった。ただひとつ、スタンドの中央にドンと鎮座した、8分の1スケールのミニカーを除いては……。

 ねえ、ねえ、カルロ、と、僕はお調子者の、でも根はちょっと生真面目な、知り合いのカルロに訊いてみた。あそこのスタンドのテンガロンハットの人は、なんとなくこの場の雰囲気とはそぐわないよね。

 ああ、と面倒くさそうにカルロは言った。友達だよ。俺がね、スタンドを出すように勧めたんだよ。

 へえー、っと思った。カルロの友達なんだ。40歳を過ぎたばかりのカルロと、どう見ても60歳は超えているペローニさんが友達というのも意外だった。別に歳の差がどうのこうのというわけではなくて、性格も物事の捉え方もあまりに違い過ぎるように思えたから。白いものでも、黒だ黒だ黒だ、と澄ました顔で言い張る弁舌さわやかなカルロとは対照的に、ペッローニさんは孫の手でもひいて公園を散歩してるような、朴訥で、世俗からは一歩も二歩も退いたところで生きてるような、そんな雰囲気に満ちていたのだ。

 それから何ヶ月かして、またどこかの蚤の市でペッローニさんを見かけた。やっぱりテンガロンハットをかぶって、自分の前に大きなミニカーを鎮座させていた。そのミニカーをはじめてじっくり見た。超細密というわけではないけれど、いかにもハンドメイドの味わいがあって、古いF1マシンをその頃の時代背景ごと切り取ってきたような、そんな佇まいを持つ作品だった。いいなあ、と思った。何度も何度も見て、何度もいいなあと思った。いくら?と訊いたら、とてつもなく高価な値段が返ってきた。真剣な眼差しの奥で、優しそうな目が笑っていた。


☆☆

地下室のペッローニさん。いつも風呂上りの風情。魚が大の好物。毎日でもオーケー、だそうで。

 ホテルのベッドの中で、ずっと気になってたことがまた浮かんできた。日本に帰る前の日の朝のことだ。その前の週にマラネッロに行ったときに、訪ねなければならない取引先をうっかり忘れて帰ってきてしまっていた。行かなければならないところを、それもマラネッロのど真ん中にいて、そこから5分もあれば行ける取引先のことを忘れるなんて、なんとぶざまなことだろうか。それをフッと思い出したのがアウトストラーダ時速160km/hの中。僕のクルマはもうすでにトリノの20kmほど手前まで来てしまっていた。

  もう一度引き返すのは時間的にも無理だったし、たとえその時間があったとしても、肉体的にクタクタだった。ここから350kmまた走っていくなんて……。僕を支配したのは、時間的に無理だからという言い訳に寄りかかって、その状況を物分り良く納得しようとする気持だった。従順な羊になって、僕は戻らなかった。

 イタリアには数え切れないほど来たけれど、そして、その中で、友人や馴染みの場所も増えていったけれど、時にそんなことに馴れ合って、いい気になってる自分を、何年か前の、何も持っていなかった自分が冷徹に見ていることがある。その日本に帰る前日の朝も、どこかにそんな視線があった。行ってこいよ、と言っている。僕はノロノロと起き出して着替え、そこで思い立ってモデナに住むペッローニさんの名刺を探し出して、彼に電話してみた。マラネッロの取引先と彼の家はそんなに離れていないはずだった。

 電話には彼自身が出た。マラネッロまで行くから立ち寄りたい旨を伝えると、モデナ・スッドまで迎えに来てくれるという。僕は下のロビーに下りてエスプレッソを飲み、それから猛然とクルマまでダッシュした。ペッローニさんに会うという用件がひとつ加わったけど、たとえそれがなくてもマラネッロまで行って、それでただ帰ってくるだけ、それだけでもなんだか救われる、そんな気持が背中を押した。

 いつもマラネッロに行くときは、トリノを朝の5時くらいに出て行くから道もガラガラだけど、その朝は9時過ぎの出発だったから、アウトストラーダA21号線の入口までゆうに40分もかかってしまった。早朝に出ていれば10分の距離である。一般道からA21号線へ流れていく上りの坂道は、まず最初に長い左コーナーが現れる。すると、そのコーナーの外側に、黄色い文字でHOTELと縦書きされた看板が目に入ってくるのだ。そうそう、イタリアでクルマに乗り始めて間もない頃、この看板が目印だった。遠くから帰ってきた時、この看板を見ると、ああ、間違えずにトリノに戻って来られた、と安堵したものだった。

 アウトストラーダは順調に流れた。ピアチェンツァまでが1時間20分。かけっぱなしのラジオからは、ひっきりなしに「KAMIKAZE(神風)」という単語が飛び出してくる。自爆テロのニュースだ。KAMIKAZEは自爆テロを表す普通名詞として、ここイタリアでも頻繁に耳にする。さあ、ここからボローニャ方面に向かってあと1時間強。フィオラノのテストコースには、きょうもフェラーリ・エンジンの甲高いノートが、あの小さな街を覆い尽くすように響き渡っているにちがいない。



☆☆☆

ペッローニさんのコレクションのほんの一部。エンツォから直接もらった手紙もあった。命より大切な宝物で、ガラスケース越しにしか拝めなかった。
 アイロン掛けの匂いがした。ペッローニさんからまず1階の部屋に案内されて奥さんを紹介してもらったとき、アイロン掛けの匂いがした。いい匂いでしょ、アイロン掛けの匂いって。なんか、そこでの生活を大切にしてる感じがしてね、たとえ安物のシャツでもきちんとアイロン掛けるって、きっと大切なことなんでしょう。靴を磨いたり、アイロンを掛けたりするってことは、その行為の中で自然と自分と向き合うから。いろんなことを考える。

 玄関を入ってすぐ短い廊下、左側の帽子掛けにテンガロンハットが4つとボルサリーノが2つあった。帽子が好きなんだ。それから、右側にこじんまりとしたダイニング・キッチン、そして、その隣がバスルーム。左側奥がリビング・ルームで、おそらくその手前が寝室なのだろう。子供も独立したから、とペッローニさんはちょっと顔を赤らめて言った。狭い家だけどこれで充分だから。

 それから地下の部屋へ行こうと促されて、いったん玄関を出て階段を下りた。1階とはうってかわって天井の低い地下室の扉を開けると、そこにはフェラーリ一色の世界がひろがっていた。

 うわぁー、凄いですね。僕の驚きの声にペッローニさんはにんまりとした顔をこちらに向けた。ミニカーもこんなに集めて、写真もたくさんじゃないですか。これ何年かけて集めたんですか。

 18歳のときから33年間、私はスカリエッティのボディ職人だったんです。ペッローニさんは淡々とそんな話から始めると、ボディの外板をハンマーでコツコツと叩く仕草をしてみせた。それから、50歳で年金生活に入って、今55歳になりました、と言うと、照れ隠しなのかなんなのか、大声で笑った。その笑いをやり過ごして、それにしても、と僕は思っていた。やっぱり、こういうことだったのか。僕はペッローニさんの手からなるあの大きなミニカーが漂わせる独特の空気の素を、期せずして探り当てたような気がした。あれは、昔のボディ職人の仕事の再現だったんだ、と。

 60歳は超えていると思っていたのに,実際は5歳以上も若かったペッローにさんは、そのあと2時間以上、いろんなことを話してくれた。手仕事で作っていた頃のフェラーリは良かったよ、と何度も言った。フィアットの傘下に入ってからは、あからさまなコストダウンで、エンブレムを固定していたボルトが2本から1本になり、最後には両面テープだけになってしまったと嘆いた。ピニンファリーナのデザインといったって、実際は私らの手がフェラーリのボディを叩き出したと、だから実際には同じものはふたつとないんだ、と言って誇らしげである。

 総帥エンツォ・フェラーリの傍らで顔を紅潮させたペッローニさんの写真もあった。何かの記念の食事会の時のスナップなんだろう、結び目の曲がったネクタイを締めた彼は、エンツォの隣で掌をこちらに向けて、胸を張って写真に収まっていた。

 歩いているかぎり、いろんな人に出会うことができる。そしてその春夏秋冬こそが自分の仕事を豊かにしてくれることを、従順な羊であった僕はまたこうして知らなければならなかった。失ったものへのノスタルジーの一言では片付けられない共感を、ペッローニさんに覚える。エンツォの横に並んだ写真を見せてもらって、心底、思った。凄いじゃないか。良かったね、ペッローニさん。そして、来る日も、来る日もpianino, pianino (ゆっくり、ゆっくり)とボディを叩き続けたこの男の人生と、それ誇りとして生きる今の彼自身が、とても羨ましかった。

 それから何台かの彼の大きなミニカーを見せてもらい、その内の数台を僕はかなりの厚さのユーロ紙幣と交換に自分のクルマに積み込んだ。この繊細なガラスケースを日本まで無傷で送るのは博打のようなものだけど、自分がイタリアのクルマに関わる仕事をしている以上、そしてその何ものかを伝えうる品物を探し歩いている以上、この目の前のモデルはどうしても日本に、それも自分がいちばんに送り込みたいと思った。

 帰り道、クルマの揺れがミニカーを損傷しないように、道路のでこぼこを慎重に避けてトリノへの道を辿った。7月1日オープンの新しい『イタリア自動車雑貨店』には、こいつを飾ろう。スカリエッティ・モデナのボディ職人、ペッローニの回顧と誇りへの共感を込めて、こいつを飾ろう。トリノに鼻先を向けたクルマの中で、僕はそのとき、なんだか無性に嬉しかった。





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